桶狭間の戦いで全国的に有名になる織田信長の話を簡単にまとめました。
ちなみに、ここでご紹介する桶狭間の戦いで織田信長が勝利した理由を書く中で、様々な説に会いました。
様々な説がある中で信長公記で書かれたものがTAIJIにはしっくりきたので、そちらをベースにしています。
数ではかなりの劣勢と言われる織田信長軍。
しかし、織田信長はその劣勢を物ともせず勝利しました。
織田信長はうつけものと言われていますが、実は策士の一面をも持っていたのです。
では、これからできるだけ簡単にを心掛けて、「桶狭間の戦いで信長が勝利した理由」をまとめていきます。
桶狭間の戦いの流れ
圧倒的な数的劣勢を者ともせず、勝利した織田信長。
1/10しか兵が居なかったのにも関わらず勝てたことが織田信長の名を全国へ広げることになりました。
織田信長は実は策士
当時、今川の元にいた徳川家康は、大高城に大量の兵量を送り込んでいたとされています。
その情報が耳に入っていた織田信長は今川軍は大高城に向かう事が分かっていました。
駿河から大高城に向かうにはどうしても通らないといけない道があり、道は狭間といわれる細い窪地だったのです。
織田軍による奇襲作戦
窪地に今川軍が差し掛かった時に、奇襲をかける。
それが織田信長が勝てる唯一のポイントでした。
しかし、細道に差し掛かったところで、一気にたたみかける。
戦にある程度なれている者であれば、警戒は怠りません。
織田信長がすごいのは、その警戒すらも超えていったところなのです。
織田軍による「農民おもてなし作戦」
ただ奇襲をかけるだけでは勝率もそれほど高くない。
そこで用意したのが「農民おもてなし作戦」
そのおもてなし作戦とは、今川軍が狭間といわれる細い窪地に差し掛かった時に、農民がお酒やお餅を持って現れるというものでした。
長距離を移動して疲弊した兵を休ませるために、今川軍はそこで昼飯を取ることにします。
しかし、この農民は信長のスパイ。
ここで足止めに成功した信長軍は一気に今川義元だけを狙って攻めます。
奇襲を受けた今川義元。
25000の兵も上手く機能することなく、今川の周りを守るのは6000兵ほど。
さらに直接今川を守ることができるのは300兵くらいだった所から、逃げるしかありませんでした。
そこに追いついた織田信長の将が今川の首を取ったとされています。
それによって戦意を喪失した今川軍は来た道を帰るしかありませんでした。
桶狭間の戦いとは
永禄3年5月19日(1560年6月12日)
25000人の兵士を率いて進行した今川義元。
今川とは尾張地方を我が物にしようと駿河から攻めてきた戦国大名です。
今川軍vs尾張の権力を持っていた織田信長が迎え撃ちます。
今川軍の25000兵に対し、織田軍は2000兵~3000兵。
数では圧倒的に劣勢な戦いでしたが、見事、織田軍は今川義元の首を取り勝利したとされています。
その戦場となったのが桶狭間という場所でした。
現在の桶狭間の場所
愛知県名古屋市緑区に桶狭間古戦場公園があります。
さらに愛知県豊明市にも桶狭間の戦いの石碑があります。
両方のことから考えるに、熱田神宮から少し東~豊明市の間が桶狭間の戦いで戦場になった場所です。
また、一説によると義元は桶狭間山で討たれたとされている記述もあるようです。
いまだにどちらが正確なのかは定かではありません。
さすがに2000ほどの兵士で25000の兵に勝てるわけなく
信長を大きく見せる為の誇張との説もありますね。
どんどんいろんな説がささやかれていますね。
ここで書いていることも間違っている可能性が高いとつくづく思います。
いやいや山で休息では無いですよ!大高城から約3キロほど離れた所でわずか5千の兵と酒盛りしてたんですよ!
あなたこそ勉強したほうがいいですよ!
投稿者さんあまり。気にしないほうがいいですよ!
多分あちらの方は鷲津砦も丸根砦も知らないでしょうから。
義元は山の上で休息していたところを奇襲されたんですよ。
もっと勉強してからアップしたほうがいいですよ。
ご指摘ありがとうございます。
TAIJIが勉強した際は、桶狭間の窪地で休憩していたとなっていました。
様々な説があるのですね。
上の人こそ勉強不足なんで気にしないほうがいいですよ!
あなたこそ勉強したほうがいいですよ!
鷲津砦丸根砦をご存知で?
知ってるなら義元がどこにいるかわかりますよね?
奇襲説は後に信長公記を元に書かれた小説での話ですよね
ありがとうございます。
小説で書かれた説だったとは知りませんでした。
早速、手直しさせていただきます。