織田信長が本能寺の変で敗れたのは有名な話ですね。
本能寺にいる織田信長が謀反を起こした明智光秀に倒されたとされています。
今回は、織田信長が敗れた本能寺の変に関して可能な限り簡単にわかりやすくまとめました。
少し前、エグスプロージョンさんがこの本能寺の変を題材にダンスを作ったということで有名ですね。
ちなみに、その動画が「踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】」
こういったものです。
この歌詞がかなり簡単に本能寺の変をまとめているんです。
織田信長が本能寺の変で休憩中に、遠征へ行っているはずの明智に倒されたということです。
歌詞だけでは伝わらないところを諸説ある中で1番しっくりきたものでご紹介します。
このページのもくじ
本能寺の変直近の背景
今回、織田信長が本能寺の変で命を落としましたが、そこに至るまでの経緯を簡単にまとめます。
まずは、本能寺の変が起こるまでの歴史を振り返ってみます。
戦国時代最強クラスの武田家の衰退
武田信玄が率いる軍は戦国時代でも最強クラスでした。
しかし、織田信長が鉄砲を使い始めたことによって、最強と言われていた武田騎馬隊も歯が立ちませんでした。
それからというもの武田家は衰退の一途を辿り、織田信長&徳川家康軍に対抗できずに消えていきます。
京都を中心に同時攻撃
武田家が終わりを迎え、敵対する大勢力が少なくなるにつれ、戦国時代の天下統一への最終段階の為、織田信長は同時に各地で戦乱を起こします。
その為、京都中心は手薄になっていたのです。
ちなみに、この時の明智光秀は現在の兵庫県北部を占領した後、中国地方へ進軍する予定でいました。
将軍就任を断った信長
天下統一もすぐそこ。
その頃、幕府の将軍につかないかという要請が天皇よりあったが、それを織田信長は断ったそうです。
理由は定かではないですが、よく言われている説としてこのようなものがあります。
将軍はいってみれば天皇の下。
天下統一の最短距離である将軍になったとしても、結局は日本一にはなれない。
そのルートを進むより、別の方法で日本一を目指そうとしたのでないか。
または、引退も近くなってきていたことから、自分ではなく息子に将軍をやらせ、裏から支配しようとしたのではないか。
こういった説がありました。
織田信長が本能寺に入るまで
徳川家康が接待に招かれる
素晴らしい功績を上げた徳川家康は、先の戦いで織田信長に貢献したことを高く評価され信長がいるお城、安土城へ招待されました。
そこで、織田信長は徳川家康を数日間の間もてなします。
その時、接待役として起用されたのが「明智光秀」だったのです。
織田信長が明智光秀をリストラ!?
徳川家康をもてなす役割を任された明智光秀ですが、ここで大きな失敗をしてしまいます。
よく言われている失敗の内容が、こちらです。
「織田信長の命令で徳川家康に用意した接待用の食べ物が腐っていた」
これに激怒した織田信長は、明智光秀を大いに叱り、徳川家康の接待役を解任しました。
織田信長は明智に出兵の命令を下す
失態に激怒した織田信長は、明智光秀に対して出兵の命令を下します。
自分の城に戻った明智光秀は、出兵の準備を進めます。
命令された行先は秀吉が交戦中の土地でした。
さらに、織田信長は明智光秀の持っていた領地に対して、かなり過酷なことを迫ります。
「今、明智光秀が持っている土地は全て没収し、秀吉が攻めている土地を光秀のモノとする。」
土地を奪われるというのは、かなり残酷なことです。
何故かというと、明智軍には1万3千人の兵がおり、その家族、親族その他諸々の明智配下の土地が一気になくなるというのです。
さらに武功を立てた武士の褒美として土地を渡すということもできなくなってしまいます。
織田信長の本能寺へ~前日
織田信長が本能寺へ
本能寺の変が起こる2日前、織田信長は本能寺へと足を運びます。
このとき、茶器を大量に本能寺へと運んでおり本能寺でお茶会をする事になっていたのではないかと言われています。
本能寺の変の前日
この日、織田信長は本能寺にてお茶会の為に持ってきた茶碗やその他茶器のお披露目会をしていました。
そのころ、明智光秀は本能寺にて織田信長を討つ準備の最終段階へ入っていました。
そして、その日の夜。
秀吉の援軍に向かうはずの軍を急に方向転換させ、
「敵は本能寺にあり」
と、1万を超す軍勢を本能寺に向けて進軍させます。
本能寺の変で織田信長が討たれる当日
織田信長 最後の夜
本能寺に向かっていた軍は、次の日の夜、本能寺を包囲することに成功しました。
寺にいるものが寝静まるころ、1万の兵が一気に本能寺へと攻め込みます。
騒動に気付いた織田信長も応戦しますが、数十人で対抗できるような兵の数ではありません。
終わりを悟った織田信長は、寺の奥に入り火を放って自害したそうです。
本能寺の変の不思議 織田信長は見つからず
本能寺の変直後に一つ不可解なことが残りました。
騒動がある程度収まった後、明智光秀は信長の遺体を探させます。
しかし、いくら探しても織田信長の遺体は発見されませんでした。
結局それはこの現代においても謎のままであり、実は逃げ延びてひっそりと暮らしたのではないかとも言われています。